今朝、Facebookを眺めていたら、鹿児島市内において多文化共生社会づくりの一環として、イスラム理解講座が実施されることを案内する宣伝を目にしました。
県内でも留学生をはじめとして、イスラム教徒の住民(ムスリム)を見掛けることも多くなりました。
特に、ムスリムの女性は、頭や身体を覆う布(ヒジャブ)という風習が特徴的であるため、その外観で信仰している宗教がわかったりします。
しかし、その特徴ある外観や行動が、日本のような画一化・均質化された社会では異様に映ることもあり、誤解や摩擦を生み出す可能性もあるため、まずは我々がイスラムを理解することが重要であり、そのための講座が開講されることは意義があると考えます。
他方で、我々側からのアプローチだけでなく、イスラム側でも、「異文化・異文明を受容し、自らを変化・適応させていく意思があるのか」という点も重要です。
私も、5年ほど前に、マレーシア、インドネシア、アラブ首長国連邦のハラル認証機関関係者と仕事をしたこともあり、イスラム理解のために、各国のムスリムと多数意見交換をしました。
その後、自分でも、イスラムに関する知見を深めるための専門書を読んだりもしたのですが、イスラム教の本質として、「閉鎖的環境による汚染からの防衛」というものの強さ(頑なさ)を感じることがあります。
この汚染を精神的なものととらえれば、幾つかのイスラム国家に見られるような、極端な戒律による宗教国家としての鎖国体制であり、物質的なものととらえれば、食品加工場における豚由来成分のクロスコンタミネーション(交叉汚染)の徹底排除によるハラル認証制度に行き着きます。
宗教内部での臨機応変や柔軟性は見られるものの、他の宗教や他の文明との融合や混合ということに対しては、必ずしも積極的に受容してこなかったのがイスラムの歴史ではあります。
このグローバリゼーションの時代に、多くのムスリムが異文化・異文明の国に居住し・定着が進んでいますが、それによって、イスラムは変わるのか、変わらないのか。
こちら側が理解を示すだけで、共生社会が実現するわけではなく、そこには「相互理解」というお互いの歩み寄り(=寛容の精神)が必要ではないかと考えます。
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