先日、出席した会議において、講師が講演の締め括りに「永遠に変わらないためには、変わり続けなくてはならない」というフレーズを持ち出しました。
どこかで聞いたことがあるフレーズだと思っていたら、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』。
昔、観たものの、当時はイタリア統一史に関する知識が不十分で、登場人物のそれぞれの政治的立場が理解できなかったため、ストーリーを飲み込めなかったというのが、私の20代の経験。
しかし、ヴィスコンティ監督の映像美、特に作品の終盤を占める舞踏会の場面は、本物の貴族の屋敷において、本物の貴族を動員しての撮影であったため、その絢爛豪華な優雅さは、強烈な印象を残しました。
イタリア統一史を学び、改めて本作品を観直してみると、貴族階級と新興ブルジョアジーとの間に存在する品格と価値観の断絶や、時代を諦め、静かに滅びゆくことを願う老貴族の悲哀を感じる一方で、「変わるものなど何もない。変わっても良くはなるまい」という公爵の台詞には、革命や改革、選挙等による政治体制の変化はあったとしても、人間社会の実相や人間の本質には不変のものがあるという限界を感じさせられました。
本作品の登場人物であるサリーナ公爵は、貴族(伯爵)でもあったルキノ・ヴィスコンティ監督の分身のような存在に思えます。
日本の明治維新とは異なり、イタリア統一運動は、国民運動を目指すところから始まったため、より劇的な変化が起こっており、当時の支配階級が、その変化に合わせて生き延びるためには、人並みならぬ苦労や困難があったことは想像に難くはありません。
貴族の目から見た政治体制の変革(=革命)が如何なるものであったかという視点も、本作品を楽しむための視点のひとつだと思いました。
レビュー評価:
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