先日、facebookでの、とあるやり取りが目に入り、それ以来、心の中に大きなわだかまりが残っています。
別に、自分のことが取り上げられたわけではないのだろうけど、もし、自分がこういう見方をされているのであったら不本意だなという気持ちが残っていました。
そのやり取りというのは、来たるべき某自治体の首長選挙における現職の適性に関する議論について。
現職首長が就任してから、優秀な職員が何名も辞職して、行政が劣化しているという発言者のコメントに対して、ある経済団体のトップの方が、当該職員の行動を次のように批判しました。
因みに優秀な県職員が辞められたの事です。私は身近にいないだけに詳しく存じませんが簡単に重責を投げ出すような職員を優秀だとは自分の人生を振り返って思いたくありません。
ちなみに、「優秀な職員が辞めた」と主張される方と私とは面識があり、転職する際には直接御挨拶を申し上げる関係ではありましたが、さはさりながら、私自身がここで言う「優秀な職員」に含まれているかは存じ上げません。
しかしながら、「簡単に重責を投げ出す」という言葉に対して、違和感、ひいては嫌悪感を覚えました。
この違和感、嫌悪感の原因は何なのかと、うまく自分の中でも消化できずにいたのですが、本日、新型コロナウイルスの対応で滅私奉公を強いる雰囲気に対する違和感を訴えるTwitterを読んで、その原因が特定できました。
それでいいと思います。
危ないと思ったらさっさと逃げて下さい。現場の人の使命感や我慢につけこんで、物資供給や待遇を改善しないやる気搾取という病気がこの国には以前から蔓延している。
医療崩壊はそれをずっと放置してきた結果です。
その犠牲になる必要はありません。— さときゅう (@kyu_sato) April 25, 2020
本来、社員や従業員の意欲や能力を引き出し、そのために必要なリソースを確保し、体制を整えることがマネジメントのはずなのに、それを実現できないリーダーの無能や怠慢は棚に上げて、社員や従業員の忠誠心や根性論へのすり替えではないかと思いました。
こう言っては失礼かもしれませんが、その程度のマネジメント能力だから、地域の経済衰退に歯止めを掛けられず、旧態依然として、新しい施策も打てないのではないかと思ったりします。
「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と封建時代の滅私奉公が通用する時代ではありません。
職業選択の自由が保障されている現代であり、「君君たらずんば臣臣たらず」と、自らの生き方を決めることができる時代です。
私の場合は、持て余していた自分の能力や好奇心を満足させてくれそうなミッションに出会い、それに相応しい待遇を用意され、なおかつ、そのことによって、自分の行動範囲と地域に対する貢献度合いを拡大できると、確信できたからこその転職でした。
「簡単に重責を投げ出す」なんていう軽い一言で片付けることができない葛藤と決意を経た上での決断であったことを、ここに明らかにしておきたいと思います。