感染症の拡大に関する科学的な理解
イタリアの小説家であり、素粒子物理学の科学者でもあるパオロ・ジョルダーノによるエッセイ集。
新型コロナウイルスが感染が流行していく様子を、科学者としての姿勢で、どのように理解すべきかを説明し、客観的かつ冷静に目の前の現象を理解する重要性を説きます。
日本でもマスメディアを中心に、様々な情報が流され、そこに専門家と称する方々も加わり、SNSで広範囲に流布されるという実態を目の当たりにしましたが、それがはたしてどこまで科学的に正確な理解に基づくものであったのか、検証が必要だと思います。
現実には、そもそも自然の構造が線形ではないのだ。自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている。自然は生まれつき非線形なのだ。
感染症の流行も例外ではない。とはいえ科学者であれば驚かないような現象が、それ以外の人々を 軒並み怖がらせてしまうことはある。こうして感染者数の増加は「爆発的」とされ、本当は予測可能な現象にすぎないのに、新聞記事のタイトルは「懸念すべき」「劇的な」状況だと 謳うようになる。まさにこの手の「何が普通か」という基準の歪曲が恐怖を生むのだ。COVID‐19 の感染者数は今、イタリアでもほかのどこでも増え方が安定していないが、今の段階ではこれよりもずっと速く増加するのが普通で、そこには謎めいた要素などまったく存在しない。どこからどこまで当たり前のことなのだ。
行政と市民の間の相互不信感
日本では、政府の情報開示姿勢に対してマスコミをはじめ、市民の間でも不平・不満が多く見られましたが、緊急事態宣言発表後、感染症対策が自治体のレベルまで権限が下りてくると、自治体間の情報発信姿勢の差異の大きさが顕著になりました。
積極的に情報を開示し、市民のための政策を発信し、市民に協力を求める首長に対しては、多くの市民から賛同と協力が得られる一方で、そうではない、国からの指示待ちの首長に対しては、厳しい批判や非協力的姿勢で臨まれるという事象も発生しました。
また、イタリアでは、行政と市民の間の相互不信が事態の深刻化・複雑化を促進した面もあるようで、我々も検証が必要と言えます。
行政は専門家を信頼するが、僕ら市民を信じようとはしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。専門家にしても市民をろくに信用していないため、いつもあまりに単純な説明しかせず、それが今度は僕らの不信を呼ぶ。僕たちのほうも行政には以前から不信感を抱いており、これはこの先もけっして変わらないだろう。そこで市民は専門家のところに戻ろうとするが、肝心の彼らの意見がはっきりせず頼りない。結局、僕らは何を信じてよいのかわからぬまま、余計にいい加減な行動を取って、またしても信頼を失うことになる。
雑多な意見しか出せない科学者
未知のものに対する不安や恐怖は誰もが抱くもので、だからこそ、早急に人々はその正体を早く突き止めたいし、その対応策に対する見通しを得たいと願うものです。
今回の新型コロナウイルスの流行に際しては、Twitter界隈で、コミュニケーションに慣れてない科学者が次々と現れ、自らの意見を発信し、利用者から様々な毀誉褒貶や百家争鳴の議論が起こると、いつの間にかフェードアウトし、正解なき不毛な議論だけが取り残されるという事態が見られました。
日本では間違いなく専門家の「専門性」に対する信頼は低下したと思うのですが、イタリアでも同様の現象が起こり、それに対して、筆者は、科学者としての謙虚な反省姿勢を示しています。
今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、雑多な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないもので、疑問は科学にとって真理にまして聖なるものなのだ。今の僕たちはそうしたことには関心が持てない。専門家同士が口角泡を飛ばす姿を、僕らは両親の喧嘩を眺める子どもたちのように下から仰ぎ見る。それから自分たちも喧嘩を始める。
コロナ後の世界をどう生きるべきか?
新型コロナウイルスは間もなく終息するのでしょうか?
その見通しについて、筆者は、完全な終息は当面の間訪れないと書いています。
僕たちは今から覚悟しておくべきだ。下降は上昇よりもゆっくりとしたものになるかもしれず、新たな急上昇も一度ならずあるかもしれず、学校や職場の一時閉鎖も、新たな緊急事態も発生するかもしれず、一部の制限はしばらく解除されないだろう、と。もっとも可能性の高いシナリオは、条件付き日常と警戒が交互する日々だ。しかし、そんな暮らしもやがて終わりを迎える。そして復興が始まるだろう。
ここから先は科学者ではなく、小説家パオロ・ジョルダーノの真骨頂とも言うべき文章が続くのですが、筆者は「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」と質問を投げかけます。
筆者は「僕は忘れたくない。」として、最悪の状況をもたらした、自らが目の当たりにした現象や体験を、次々に書き出していき、それらがそのまま忘却の彼方に消え去っても良いのかを、我々読者の一人ひとりに詰め寄ってきます。
喉元過ぎれば熱さを忘れるように、新型コロナウイルスを克服したら、それで終わりではなく、新型コロナウイルスの流行をもたらした人間の営みや社会・経済のシステムの有り様について考えてみることの重要性を訴えています。
冷静な科学者としてではなく、人類や社会・文明の行く末を憂う一人の人間としての感情が、そこには溢れていました。
レビュー評価:
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