民間企業へ転身してから間もなく2年が経過しようとしていますが、転職後、早朝から夜までハードワークをしながら、休日や移動の合間にHarvard Business Reviewを読んだり、資格取得のための学習をしたりという、全力疾走の日々を過ごしてきました。
その甲斐あって(?)、人間ドックで多くの検査項目が「要検査」や「経過観察」に引っかかるなど、体のポンコツぶりも一気に露見したのが先月8月の出来事でした。
「自分も若くはない」ということを再認識し、仕事に全力傾注の生活を改めようと思っていましたが、これまでの戦闘経験の積み重ねが効いてきたのか、ここで会社の経営上の課題や安定的な事業運営のために必要な改善に多数気づき、それに取り組めるだけの社内外の環境が整ってきたという段階でもありました。
こうなってくると、「目の前の課題の解決策が見えているのに取り組まないわけにはいかない」という持ち前の勝負師の気持ちが前面に出てくるわけですが、一気にそこまで気持ちが高まらない事情があります。
それは私が所属している会社だけでなく、日本全体を覆っている空気かもしれませんが、異常事態の常態化による危機感の麻痺ともいうべき現象で、危機の本質を外部要因に求め、眼前の課題を先送りし、それに関わる人々の士気の低下に手をこまねいたままという「リーダーシップの欠如」ともいうべき問題が横たわっています。
そういう現象を横目に見ながら、思い浮かべたのが『ローマ人の物語:勝者の混迷』の1フレーズ。
共和政ローマの興隆は、一人の英雄の力によるのではなく、多くの人々が試行錯誤しながらもつくりあげた、国家運営上のシステムにあったというのが、研究者の間でも定説になっている。興隆が個人の力ではなくシステムに負っていたのならば、混迷も、個人の力量の衰えによるのではなく、システムによらねばならない。
今回のコロナ禍で白日の下に曝されたのは、危機管理時における日本の様々なシステムが機動力に欠け、後手後手の対応に回り、人命や財産への大きな損害が与えられたということ。
このシステムの不具合には政府や政治家、地方自治体だけでなく、医薬業界やマスメディア等も含まれると考えていますが、「緊急事態宣言」という前代未聞の対応をするに当たって、挙国一致からは程遠く、各者各様に部分最適化を図る対応・行動をとったことにより、問題の複雑化や危機の深刻化が進んだと考えています。
とは言え、単に古いシステムを批判し、新しいシステムを全面導入すれば良いという単純な解決策に飛びつくわけにもいかず、地中海の覇者となった都市国家ローマは、都市国家を脱却し、帝国へと移行する時には、共同体内部を二分し、血で血を洗う闘争が繰り広げられたわけです。
システムのもつプラス面は、誰が実施者になってもほどほどの成果が保証されるところにある。反対にマイナス面は、ほどほどの成果しかあげないようでは敗北につながってしまうような場合、共同体が蒙らざるをえない実害が大きすぎる点にある。
ゆえに、システムに忠実でありうるのは平時ということになり、非常時には、忠実でありたいと願っても現実がそれを許さない、という事態になりやすい。だからこそ柔軟性をもつシステムの確立が叫ばれるわけだが、これくらい困難なこともないのである。例外は、次の例外を呼ぶ宿命をもつものである。
過去の成功体験が根強く残っている組織や緩やかに危機が進行している共同体では、劇的な変化や抜本的な改革は忌避されますが、改革や変革は危機感がエネルギーに転換しない限りは、様子見や日和見などの抵抗勢力化するリスクもあるため、やはり順境の時にこそシステムに不具合が生じてないかを見極めるべきです。
そこに気づき、行動に移し、結果を出せるリーダーこそが、今の日本の社会や組織に求められていると思います。
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