「友だち」ではなく「仲間」を
先日、急逝したエンジェル投資家の瀧本哲史の著書を読み直そうと思い、『僕は君たちに武器を配りたい』と併せて読みました。
最近、私は個人のFacebookをほとんど更新していません。
確かに、つながりを持った人との間で、「どんなプロジェクトに取り組んでいるの?」とか「今、どんな課題を抱えているのか?」という個人的な情報を随時更新し、共有できたので、フェイスツーフェイスのミーティングやディスカッションにおける導入時間の短縮化を図ることもでき、一時期は相当程度にFacebookを重用していました。
しかし、Facebookでは公私の境界線を見分けるのが困難になる一方で、総合的かつ体系的に自らのミッションや問題意識を伝えていくためには、時間の経過とともに情報が流れ去るFacebookよりも、情報のストックや整理がしやすいブログの方を重視するようになったというのが、理性面からの理由。
他方で、Facebookを使いながら、感情面から何となく忌避したい違和感という感情面からの理由があり、その要因が判然としなかったのですが、本書を読んで腑に落ちました。
瀧本氏が指摘する「人とのつながり自体が自己目的化」している人を多く見掛けるようになり、辟易するようになったんだなと。
夢を語り合うだけの「友だち」は、あなたにはいらない。
あなたに今必要なのは、ともに試練を乗り越え、ひとつの目的に向かって突き進んでいく「仲間」だ。
SNSで 絡んだり、「いいね!」するだけの「友だち」はいらない。
必要なのは、同じ目標の下で、苦楽をともにする「戦友」だ。
友だちも仲間も他人から「配られる」ものではなく、自分自身の生き方を追求することで、自然にできあがっていくのだ。
だから究極的に必要なのは、他人から与えられたフィクションを楽しむだけの人生を歩むのではなく、自分自身が主人公となって世の中を動かしていく「脚本」を描くことなのだ。
そして、あなたが描いた「物語」に、あるときは「観客」として、またあるときは「カメオ出演」や「エキストラ」として、またあるときは「プロデューサー」として登場し、「仲間」になることを、私は心から楽しみにしている。
本書は孤独に生きることをテーマにしているのではなく、グローバル化が進展する時代において、人々が幸福に生きる基本的な考え方として「常に複数の緩やかなつながりを持った組織に身をおき、解決すべき課題を見つけて、共通の目標に仲間とともに向かっていくこと」を薦める本です。
SNSの閉じられた世界で、相互承認の繰り返しによる自己の虚像の肥大化に満足するのではなく、現実の世界でシビアに生き抜くためのチーム作りを追求した本です。
「ありがちなチーム」を変えるための戦略
瀧本氏が本書で取り上げた「ありがちなチーム」について、思い当たる節がありました。
求められる仕事が定型的で平凡で、期待される業績が決まっていることであれば、ありがちなチームでも問題がない。会社内でチームを組成する場合、メンバーは年次や部署で自動的に決まり、スキルも固定的で新たな能力を身につける必要はなく、一度チームの一員に選ばれたら、基本的にクビになることも、能力が高くより適任と思われる別の人にその地位を脅かされることもない。
仕事は「やったふり」、仕事を「したつもり」で何の問題もなく、明確な成果を要求されることもない。「集団責任は無責任」という言葉があるが、そういう組織は日本中、いたるところにある(昨今の企業や行政組織の不祥事を見ても、結局、最終的に誰も責任を取っていないことは珍しくない)。
えてしてそういう組織ほど、外部から他力本願的に有識者を招いて知見を求めたり、ビジネス書で読みかじった「SWOT分析」などの「コンサルタントごっこ」にうつつを抜かす。そもそもマッキンゼーなどのコンサルティング会社で働く人間ならば、SWOT分析などの一般化されたフレームワークは、それだけでは、ほとんどの現場で役に立たないことを知っている。SWOT分析やMECE(経営コンサルティングなどでよく使われる分類法) のようなさまざまな問題解決のためのツールは、バックグラウンドの違う人がコミュニケーションを成立させるための共通言語として存在する意味はあるが、個別具体的なクライアントの課題を解決するにはまったくと言っていいほど役に立たない。
これは、そのまま自治体の現状に当てはまるような気がします。
私も自治体の若手職員と多く語りましたが、彼ら彼女らも自分が所属する組織が、「ありがちなチーム」のような現状に陥っているという認識は、痛いほど持っています。
しかし、「ではどのような組織を目指すべきなのか」という問いに対する回答を持っていません。
世の中を支配している物の見方や捉え方(=パラダイム)について、古いパラダイムを信じている前の世代を説得して意見を変えさせるのは、不可能であるし、それに労力を注ぐのは時間の無駄であると、瀧本氏は断じます。
パラダイム・シフトを起こすためには世代交代が必要であり、世代交代が起きるまでは、自分たちの信じる新しいパラダイム、必要とされるパラダイムを許容する「仲間」をつくりながら、旧世代が死に絶えることを待つという、持久戦を訴えます。
組織が巨大化すればするほど、システムが固まれば固まるほど、変革に対して頑強な抵抗を示す組織文化が形成されることは経営学の様々なケーススタディで見受けられるところ。
瀧本氏の戦略は、組織文化を変えようと意固地になって正面突破の会戦に訴えるのではなく、自分たちのパラダイムが主流になるまで、負けないような戦いを繰り返すゲリラ戦のすすめであるように思いました。
「よいチーム」の特徴とチームアプローチ
瀧本氏が本書で強調したいのが「チームアプローチ」という考え方。
成果を出すチームの特徴として、次の5つを挙げています。
- 少人数である
- メンバーが互いに補完的なスキルを有する
- 共通の目的とその達成に責任を持つ
- 問題解決のためのアプローチの方法を共有している
- メンバーの相互責任がある
私自身も、数多くのプロジェクトマネジメントを担当し、それも組織外のステークホルダーとのコラボレーションを経験しましたが、その際に意識していたのが「プロジェクトは小さく産んで大きく育てる」という方針。
行政組織にありがちなのですが、最初から大上段に構えて、利害関係者の全てを取り込もうと大きなチームを作ったものの、結局は、合意形成も碌にできないまま、時間だけを浪費するプロジェクトの失敗例が多数あります。
結成したチームの中で、メンバーとともに試行錯誤を繰り返しながら、目標に向かってどれだけ知恵を絞り、汗をかきながら、努力の積み重ねができるかが、結局は成果の実現というアウトプットに関わってくると思います。
「本当の自分」や「本当の仲間」をいくら懸命に探し求めたところで、思春期の堂々巡りの自問自答のようなもので、100%満足できる存在が見つかることは、永遠にない。「今目の前にある仕事」「やらなければならない宿題をやること」を通じて、その試練を仲間とともに乗り越えることが、結果的に自分自身や仲間を見出すことにつながるのだ。
ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ
本書はキャリア論を扱いながらも、プロジェクトマネジメントとも深く関わっていると同時に、イノベーション論やリーダーシップ論との関連性もあり、筆者の博覧強記ぶりが如何なく発揮されています。
そもそも本書のコンセプト自体が、変化する現代資本主義社会の中で、新たなキャリアにつながるチームアプローチを解き明かすということなので、現代資本主義に求められているイノベーションやリーダーシップとは切っても切れない関係にあるのは当然です。
そうした中で、ルネサンス期のフィレンツェにおけるメディチ家を中心としたイノベーションの有り様を分析したフランス・ヨハンソンの『メディチ・インパクト』や、チームのミッションやビジョンを掲げる上で、神話学的アプローチの可能性を見出したジョゼフ・キャンベルの『英雄の輪廻』などは、新しいインスピレーションをもたらしてくれそうな予感がしています。
異分野のコンテンツを新たなコンテキストに基づいて編集し直して新たな発見につながるヒントもたくさん盛り込まれています。
その中でも、社会学者テンニースが提唱した「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」の概念を使って、日本社会の現状と、これからのあるべき姿について、筆者はかなり力点を置いています。
ゲマインシャフト的集団にも、きちんと目的を与え、ベクトルを持たせることでゲゼルシャフト的集団へと転換を図っていく視点というのは、現在の日本社会が抱える多くの課題を解決する手段としての可能性を感じました。
自然発生的に集まった「なあなあ」の関係のゲマインシャフト的な集団を、目的がきちんとあるゲゼルシャフト的な集団へと転換していくこと。それがこれからの日本社会において、大切となってくると私は考える。
友だちはいらないか?
上司に対する愚痴や組織への不平・不満をこぼす、あるいは、無意味かつ無駄なおしゃべりをしながら何時間も過ごすような友だちは要りません。
私が必要とする「友だち」とは、私の知らない世界の知識や多彩な経験を有しており、多様な価値観を受け入れる度量があって、それを論理的に他者とも認知・共有し合えるスキルを持っている人。
そういう人から見て、私自身も「友だち」と思ってもらえるように、自己の足りないスキルや器量を向上させる意識を持ち続けたいと思います。
レビュー評価:
[itemlink post_id=”1032″]