先日、観覧した「富野由悠季の世界」展の中で、最も印象的だったのは、「奇跡の6分」と題された『∀ガンダム』のエンディングを飾る6分の映像。
私の中では「理屈抜き」に感動的で、この映像を観たからこそ、食わず嫌いでほとんど観なかった『∀ガンダム』の視聴を決意させたほど。
富野監督が作詞し、同監督が天才と認める菅野よう子が作曲(編曲)、奥井亜紀が歌う『月の繭』が幻想的なBGMとして効果を出しているという面もあるのですが、登場人物たちの後日談を多彩なカメラワークや演出を駆使することにより、言葉ではない、説得力のある表現で披露しています。
カメラワークや演出については、おそらく専門家と思しき方が詳しい解説を記述してくれていますので、こちらのブログを是非御覧ください。(→「今さら野暮なことだが、『∀ガンダム』の、「あの」ラスト6分間をもう1度振り返ってみる。」)
また、「奇跡の6分」に込められたコンセプト(願い)についても、図録『富野由悠季の世界』に、次のとおり詳述されています。
『∀ガンダム』という物語の最後を飾るのは、「奇跡の6分」とも呼ばれる登場人物たちの、その後の姿に優しく寄り添うシーンの連なりである。その中でディアナの肉体が衰えつつあることがさりげなくもはっきりと示される。ディアナの地球への帰還は、いつか彼女の命がついえ、大地へ帰ることを意味する。
ディアナは月では冷凍睡眠によって、人間の肉体の限界を超える長い年月を生きてきたが、地球でようやく最後の眠りを迎えるのだろう。
ロランが彼女にかける言葉は、眠り、目覚め、また眠る私たち人間の命のサイクルを喜ぶものである。「また明日」という約束はいつか破られる時が来る。だからこそ、この毎日交わされる約束は、明日という未来が輝かしい価値を帯びていることを表現する力を持っているのである。(『富野由悠季の世界』p352.)
プロフェッショナルの「仕掛け」ってすごいですね。
カメラワークであったり、画面の切り取り方であったり、あるいは、音楽や短い言葉だけで、ひとつのストーリーを作り出し、心地よい感覚を残すという手法のひとつひとつに理屈づけや意味があるということを、改めて認識させられます。
言葉を理解する左脳だけでなく、視角や聴覚を司る右脳までも含めたトータルでの感性に訴える手法というものに、もっと真剣にアプローチしてみたいと思います。
レビュー評価:
[itemlink post_id=”1452″]
レビュー評価:
[itemlink post_id=”1453″]
レビュー評価:
[itemlink post_id=”1454″]