新潟とは公私ともに御縁が強くなりつつあるからというわけではないのですが、ふと司馬遼太郎の『峠』をKindleで購入して読み始めました。
「知行合一」を旨とする陽明学を生き方の基本とする長岡藩の家老・河井継之助の生涯を描いた作品です。
河井継之助ってこんな人
「志ほど、世に溶けやすくこわれやすくくだけやすいものはないということだ」
そのように継之助はおもっている。志は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものはその志の高さをいかにまもりぬくかというところにあり、それをまもりぬく工夫は格別なものではなく、日常茶飯の自己規律にある、という。
箸のあげおろしにも自分の仕方がなければならぬ。物の言いかた、人とのつきあいかた、息の吸い方、息の吐き方、酒ののみ方、あそび方、ふざけ方、すべてがその志をまもるがための工夫によってつらぬかれておらねばならぬ、というのが、継之助の考えかたであった。
(人の世は、自分を表現する場なのだ)
とおもっていた。なにごとかは人それぞれで異なるとしても、自分の志、才能、願望、うらみつらみ、などといったもろもろの思いを、この世でぶちまけて表現し、燃焼しきってしまわねば 怨念がのこる。怨念をのこして死にたくはない、という思いが、継之助の胸中につねに青い火をはなってもえている。
「男は、たれでもそうだ」
「おれの日々の目的は、日々いつでも犬死ができる人間たろうとしている。死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は単に虚栄の徒であり、いざとなれば死ねぬ。人間は朝に夕に犬死の覚悟をあらたにしつつ、生きる意義のみを考える者がえらい」
継之助の考えでは、物事をやろうとするとき、その発想点はできるだけ簡単明快でなければならぬ。複雑で欲深な発想や目的意識は結局、あぶ蜂とらずになる、と継之助はおもう。
(たとえば、こういうことだ。藩のためにもなり、天下のためにもよく、天朝もよろこび、幕府も笑い、領民も泣かさず、親にも孝に、女にももてる、というようなばかなゆきかたがあるはずがない)
ということであった。そういうことを思いつく人間というのは空想家であり、ほらふきであり、結局はなにもしない。
(なにごとかをするということは、結局はなにかに害をあたえるということだ)と、継之助は考えている。何者かに害をあたえる勇気のない者に善事ができるはずがない、と継之助は考えている。
「意見じゃないんだ、覚悟だよ、これは。官軍に抗して 起つか起たぬか。起って箱根で死ぬ。箱根とはかぎらぬ、節義のために欣然屍を戦野に曝すかどうか、そういう覚悟の問題であり、それがきまってから政略、戦略が出てくる。政略や戦略は枝葉のことだ。覚悟だぜ」
「覚悟というのはつねに孤りぼっちなもので、本来、他の人間に強制できないものだ。まして一つの藩が他の藩に強制することはできない」
河井継之助の生き方から学ぶこと
型破りな人間のようでありながらも、決して無軌道・無原則なわけではなく、己自身の原則に基づいて考え、行動しているのが特徴で、旧弊を徒に否定・破壊するのではなく、「長岡藩の家老」という自分自身の存在意義と器とを見失うことなく、時代の荒波に立ち向かいます。
外部環境も、社会秩序も、そして価値観までも急激に変化・転換していく中で、他者や風潮、世論に迎合するのではなく、徹頭徹尾、自らの頭で考え、行動した結果で、新たな展開期を切り拓いていく姿勢は、新型コロナウイルスの感染拡大により翻弄されている我々現代人にとっても大事な原則=志の重要性に気付かせてくれます。
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